緋色のアリエル 第6話 就職

 ふたりがダイニングで簡単な朝食を済ませていると、店の方から来客を知らせるドアベルの音がした。
「こんな朝っぱらから誰だ」
 レオナルドが不機嫌に出て行った。
 やがて「レオー、おはよーっ」と言う声と、どさっと倒れる音がした。
 アリエルも様子をうかがいに行くと、案の定クララがレオナルドを押し倒していた。
 レオナルドがクララの下から抜け出そうと、全身でもがいている。
「今の俺に、それを受け止める力はありません! 悪ふざけも大概にしてください!」
 どうにか抜け出すのに成功すると、ふーっと猫が威嚇するように身構える。クララはレオナルドに威嚇されても、意に介さないようにふふっと笑っただけだった。店の奥の扉から顔を出すアリエルに気づくと、可憐な笑顔を咲かせて手を振った。
「あら、アリエルちゃんもおはよう。レオに変なことされなかった?」
「してねーよっ!」
 レオナルドは顔を真っ赤にして、即座にバンッと床を叩いた。
「クララ、おはよう。えっと、朝早いのね」
 アリエルはどう反応したらいいのかよくわからなくて、目を泳がせた。部屋の時計が九時過ぎを示しているのが目に入る。そこまで朝早くはなかった。
 アリエルはしまったと思ったが、クララは特に気にした様子もなく立ち上がり、レオナルドを放ったまま、つかつかとアリエルに近づいてきた。
「そう! これを早くアリエルちゃんに届けようと思って」
 ぴたりとカウンターの手前で立ち止まると、鞄から一枚の紙を取り出しカウンターに置いた。
 アリエルは紙に目を落とした。名前や年齢、職などを書き込むところがある。
「これは?」
「五時通り工房ギルドの加入申請書よ。これに入っておけばレオが何かやらかしちゃってもアリエルちゃんが無職になっちゃうこともないし、万が一病気や怪我した時に病院によっては職人割引してもらえるし、おまけに同じ通りのご近所さんとも仲良くなれるわ。良いことずくめよ! もちろんレオも入っているはずよ」
 田舎でいうと労働組合と町内会が合体したようなものだろうか。
 レオナルドの方を見れば、心なしかぐったりした面持ちでソファに身を投げていた。
「ああ、何かやらかす予定は無いが、入っておいて損はないぞ。っていうか、妙に早く来たと思ったら、そういうことですか……」
 若干面白くなさそうな顔でぶちぶち言っているが、レオナルドも異論はないようだ。アリエルはカウンターの下からペンを取り出し、記入し始めた。
「それは入っておいた方が良さそうね。『職』って何て書けばいいの?」
 カリカリと、書類の枠を埋めていく。
「アリエルちゃんの場合は『薬師見習い』が妥当かしら」
「ふんふん。住所はここでいいのよね? ……番地が分からないわ」
「『薬屋レオナルド』で十分よ。分かればいいんだから」
 厳密に書かなくてもかまわないようだ。
 最後に氏名の欄に『アリエル・エイプリル』と記入して、書き損じがないかをチェックする。
 クララがふんふんと、反対側からも不備がないかチェックしてくれる。
「そういえば、昨日は聞きそびれちゃったんだけど、アリエルちゃん。貴女、ファミリーネームがあるの?」
 アリエルはうっかりしていた。この国では、庶民は名前を聞かれたら文字通り名前だけを名乗るのが一般的だ。そもそもファミリーネームを持つのは貴族だけである。
「あ、エイプリルは母さんの名前なの。うちの田舎の方だと、名前にあんまりバリエーションが無いって言うか、とにかく同じ名前の人がやたら多いのよね。それで、区別できるように女の子はお母さんの名前を自分の名前の後ろに付けて言う風習があるの」
「変わった風習ね。んー、北部の方にそういうところがあったかなー? ま、そうよねー。エイプリルっていう家名、聞いたことないもの」
 ふんふん、とクララがうなずく。
「事情を説明すればいいかもしれないけれど、面倒くさいことになりそうだから、お母様には申し訳ないけれど『エイプリル』は消しておいた方が良いと思うわ」
 クララはカウンターを回り込んでアリエルの隣にくると、おもむろにカウンター下の引き出しを開けた。つかの間、何かを探す素振りを見せた後、透明な液の入った小瓶を取り出す。
「はい、これインク消し」
「インクって消えるの!?」
 目をまん丸にするアリエルに、ふふっとどこか満足げに微笑むと、クララはインク消しの液を布に浸した。
「これで軽くトントンと叩くとびっくりするくらい綺麗に消えるわよ」
 みるみる文字が消えていく。
「すごい……何これ」
「レオ特性インク消しの魔法薬よ」
「さすが師匠……」
 当のレオナルドはソファに半分埋まりつつ、面白くなさそうに顔をしかめていた。
「準備できたわね。それじゃ、さっそく提出しに行きましょう!」
 クララは跳ねるように扉の方を向いた。
 それをレオナルドがはっとして制止する。
「待ってください、俺もアリエルも朝食の途中です」
「あら、そうだったの。それは悪いことをしちゃったわね。じゃあ、ここで待ってるから早く済ませてきちゃいなさいな」
 クララは可愛らしく微笑むと、ソファにすとんと腰掛けた。
 ふたりは急いで朝食をかき込み、とりあえず皿を流し台に突っ込むと、三人揃って五時通りに出た。レオナルドはフードをかぶっている。
 しばらく歩くと、朝の静けさとは縁遠い賑やかな様子になった。
「朝からたくさん人がいるのね」
 アリエルはぐるりと通りを見回した。荷車で大きな荷物を運ぶ人や、市場で買い物をしてきた帰りらしい人がひっきりなしに行き交っていく。時々、きらきらしい馬車まで通っていく。
「商品の仕入れとか、今日の仕事の仕込みとかあるからな。後は急ぎの仕事を急に持ってくる客なんかもいる」
 アリエルの視線に気づいたレオナルドが説明してくれる。馬車は仕事の依頼に来た貴族の物らしい。
 そんな行き交う人の中に、ちらちらとレオナルドを見ては早足で去っていく人がいることにアリエルは気づいた。黒髪は見えていないはずだが、やはり何か訳ありだと勘ぐられているのだろう。
「うーん、あんまり気分の良いものじゃないわね。早く済ませちゃった方がいいかもしれないわね」
 クララも同じ事に気づいているらしく、その声は心なしか残念そうに聞こえた。
 レオナルドも居心地悪そうに、フードを深く被り直した。


 工房ギルドは五時通りのちょうど真ん中にあった。
 重い扉を開いて中に入ると、妙にひやりとした空気がアリエルの頬をなでる。
「いらっしゃいませ」
 すぐに低い声がアリエル達を出迎えた。
 建物の中は薄暗いロビーだった。その奥にどしりと木製のカウンターがあり、眼鏡を掛けた男性が座っている。ロビーの雰囲気にぴったりの、何となく青白っぽい男だ。
「おや、クララ様と見知らぬお方がふたり」
「おはよう、フェリックス。こっちの女の子はギルド加入希望者よ」
「アリエルです」
 クララに紹介されたのでアリエルは念のため短く名乗り、スカートをつまんで挨拶をした。
「五時通り工房ギルド長のフェリックスです。アリエル様、どうぞお見知りおきを」
 フェリックスと名乗った男性も、眼鏡を軽くつついて直し、アリエルに会釈した。
「で、こっちの小さいのは……誰だと思う?」
 クララはいたずらっぽい笑顔をフェリックスに向け、きらりと榛色の瞳を輝かせた。
「ほう。謎かけ、でしょうか」
 フェリックスはカウンターから立ち、レオナルドの前にしゃがみ込み、フードをつまみ上げて顔をしげしげと見た。
「ふむ、黒目に黒髪の生意気そうな少年……青年ならば知り合いにいるのですが」
「お前は俺のことを、そういう風に見ていたんだな」
 レオナルドは面白くなさそうな顔をした。
「ということは、やはりレオナルド様なのですね」
 フェリックスは得心がいったという顔で、レオナルドのフードを元に戻した。
「『やはり』? すぐにレオさんだって分かったの?」
 レオナルドの隣でぽかんとするアリエルに、フェリックスは視線を合わせた。
「簡単なことですよ。黒髪黒目が街中に居ること自体が珍しいですし、なによりクララ様と一緒にいらっしゃいましたから」
 そう言って立ち上がる。
「あとは、レオナルド様が魔法を使われるとさえ知っていれば、何か不思議なこと、例えば子供の姿になってしまうようなこともあるかもしれない、と推測できます」
 眼鏡の奥で、ブルーグレイの瞳がきらりと光った。表情は読めない。
「……フェリックスさんは、魔女が怖くないの?」
「魔女、という言い方はいささか好みませんが、わたくしは髪の色や瞳の色で人を判断などいたしません。職人として能力があるかどうか、でございます。レオナルド様は優秀な薬師でいらっしゃいます」
 そう言って、フェリックスはふっと微笑んだ。
「では、アリエル様。申請書はお持ちですか?」
「あ、はい。クララに貰って書いてきました」
 アリエルは持って来た書類をフェリックスに手渡した。
「それは重畳。では、確認させていただきますね」
 フェリックスは申請書に目を通す。
「はい、確かに承りました」
 書類の下の方に判子を押すと、奥の引き出しのひとつに書類をしまった。
「ようこそ、職人の街五時通りへ。我々は貴女を歓迎しましょう。何か分からないことや困ったことがあったら、遠慮無くこちらへいらしてください」
 そう言ってフェリックスは微笑んだ。
「これで終わりですか?」
「何か疑問点や、あるいはご不満でも?」
「いえ、もっとなんか面接とか試験とか無いのかなーと思いまして」
 ギルドに加入することは就職するようなものだと、アリエルは思っていた。
 フェリックスは眼鏡をくいっと上げる。
「この五時通りで新しく工房を開こうというなら、ご希望通り面倒くさーい手続きがありますよ。変な方がご近所になっては困りますからね。ですが、アリエル様はレオナルド様の弟子になるということですから、そういったことは特にありません。弟子を取るかどうかは、それぞれの工房に任せていますから、こちらからうるさいことは言いませんよ」
 アリエルは拍子抜けした心地で、レオナルドとクララを見た。
「面倒が無いことは良い事よ」
 クララがにっこりと笑った。
「アリエル様。手続きとは違いますが、あちらに見える掲示板には日々様々な情報を張り出しております。こまめに確認していただけるとよろしいかと存じます。もちろん、レオナルド様も」
 フェリックスは右手を示した。大きなコルクボードに、大小様々な張り紙がしてある。
「レオ、アリエルちゃん、見に行きましょう。上の方が見えにくいでしょうから、持ち上げてあげるわ、レオ」
「うわ、おやめください! やめろって!」
 半ばクララに連行されるようにレオナルドは連れて行かれた。
 アリエルは少し出遅れた。
「やっぱり、あの二人ってすごく仲が良いわよね」
 誰に言うともなく呟いたのだが、フェリックスが答える。
「レオナルド様とクララ様の仲の良さは五時通りでは割と有名ですからね。私としては、レオナルド様がクララ様以外の女性を身近に置くということの方が驚きなのですが」
 アリエルは声をひそめた。
「昨日ははぐらかされた気がするのだけど、クララとレオさんは恋人なのかしら?」
 フェリックスも声をひそめた。
「確かに毎日時間を作っては会っていっしゃるようですが、わたくし個人の見解といたしましては、いささか疑問がございます。恋人特有の甘い雰囲気を感じられませんし。尤も、すでに五時通りギルドメンバーからはアンタッチャブル事項となっております」
 アリエルはふたりは結局の所どういう関係なんだと思ったが、先人に倣って触れないことにしようと心に決めた。
「二人で何の話だ?」
 ふいにレオナルドの声がすぐそばでして、アリエルは飛び上がった。
「な、何でもないわよ」
 噂話の当の本人の登場に、つい声がひっくり返ってしまった。
 レオナルドは胡乱げにアリエルを見たが、やがてため息を吐いた。
「まあいい。めぼしい情報も貼っていなかったし、帰って店の準備だ」
 もう用はないとばかりに、踵を返した。
「あっ待って。フェリックスさん、改めてこれから宜しくお願いします」
 アリエルは慌ててそれだけ言うと、レオナルドを追いかけようと勢いよく振り返った。
 その時、ふと視線を感じて足を止めた。しかし、そちらを振り向けど誰もおらず、その他には「どうしたの?」と首をかしげるクララと、事務仕事に取りかかろうとしているフェリックスだけ。
「気のせい……かな」
 レオナルドはすでにギルドから出て通りで待っている。アリエルは気にするのをやめてギルドを出た。