緋色のアリエル 第8話 噂話

 午後になると、また一人お客さんが現れた。
 来客を知らせるベルの音にアリエルとクララはソファから振り向き、レオナルドもカウンターから顔を出した。
「いらっしゃいませ」
「やあ、こんにちは。さっきはうちの若いのが失礼をしたね」
 立派なひげをたくわえた、初老の紳士のように見えた。
 アリエルは小声でクララに確認した。
「……どちら様?」
「五時通りで一番大きな銀細工工房の旦那さんね。ジョージのところのボス、と言えばもっとわかりやすいかしら」
 なるほど、とアリエルは心の中で呟いた。
 レオナルドが椅子から降りて、こちらへと来る。
「まあ、ジョージの事ならいつもの事っていうか。おぼこい田舎娘にまでちょっかい掛けるのはどうかと思いますが」
「おぼこいって何よ。まあ、ちょっと困ったのも確かですけど」
「君には不愉快な思いをさせてしまったね。後でもう一度、叱っておこう」
 すまなそうに眉をひそめて、アリエルに軽く頭を下げる。そして、レオナルドの方を向いた。
「そして、レオナルド。君は本当に小さくなってしまって」
「見た目はこうでも、中身はいつも通りなのでご心配なく。それで、どうかされましたか。まさか、そちらも仕事中に謝罪の為だけに訪れたということもないでしょう」
「ええ、軟膏や目薬をいくらか貰っておきたくて」
 工房の旦那が、目を細めて笑った。
 レオナルドの片眉が上がった。
「買い溜めしておきたい、ということですか? 何か大口の仕事でも入ったんですか」
「いえ、まだこれといっては無いのですが……」
 ひとつ咳払いをすると、工房の旦那は小声で続けた。
「近々、王子様が花嫁を迎えるという噂がありまして。どこの工房に結婚指輪の作成を依頼されるのか、国内の職人達は皆そわそわしておりますよ。うちは工房としてはアクセサリーを扱っていないので、指輪の依頼こそ無いでしょうが、パーティー用の食器の依頼などあるかもしれません」
 期待してしまいますね、と工房の旦那は微笑んだ。一方で、クララの表情が強ばったのに、アリエルは気付いた。
 レオナルドは首を傾げた。
「年頃の王子が居れば、そのような噂が立つことなど、いくらでもあると思うのですが。妙に確信めいた言い方をしますね」
「わたしも初めはただの噂かと思ったのですが、とある名家の令嬢が王子様から求婚された事はどうも確かだと、先程話題になりまして」
 悪戯っぽい笑顔を浮かべ、工房の旦那はシーっと人差し指を唇に当てる。
「来月、聖霊祭で王族の方々が玉都にいらっしゃるはずですし、その時に何か、サプライズで発表があっても不思議ではないかと」
 工房の旦那は、大口の仕事が入るかもしれない事もだが、むしろ国を挙げての慶事にわくわくしているようだった。
 クララは少し怖い顔のまま、何かを考えている様子だ。
「……その王子というのは、王太子のことかしら?」
「申し訳ありませんが、そこまでは。尤も、第二王子様が王太子様に先んじてご結婚なさるとは考えにくいですがね」
 銀工房の旦那は、ひげを撫で付けた。
 アリエルがおずおずと切り出した。
「あの、田舎者丸出しになっちゃうんだけど、この国の王子様って何人居るの?」
 クララがちょっとだけ微笑んだ。
「王子は二人ね。あとは王女様が一人いらっしゃるわ。一番上が王女様で、王太子はその弟よ。それから第二王子だけ母親が違うの」
 優しい声でクララはそう話すが、表情は微妙に硬いままだ。そんなクララの様子に気付いているのはアリエルだけではないようで、レオナルドはクララの顔をちらっと見ると、強引に話題を戻した。
「まあ、噂の真偽はともかく、軟膏と目薬ですね。お宅の仕事じゃ火傷だの切り傷だのしょっちゅうですから、軟膏を常備したいのも分かりますが、薬が劣化したらむしろ毒になることもあります。こまめに買いに来ていただけるとありがたいのですが」
「そうですか。では目薬と、念のため軟膏を少しだけいただけますか。なにせ、通常時でも火傷も切り傷もしょっちゅうなのでね」
 工房の旦那はいたずらっぽくウィンクした。
「分かりました。今ご用意します。アリエル、目薬はさっきジョージにやった物と同じでいい。多めに作るから手伝ってくれ」
「分かったわ」
 先ほどと同じ手順ならば何とかなるはず、とアリエルはソファから立ち上がった。
「……私、少し用事を思い出したわ」
 そう言って、クララは眉間に皺を寄せたまま店を退出していった。扉のベルがカランカランと、乾いた音を立てる。
「クララ、大丈夫かしら」
「……。あまり客のプライベートに踏み込むなと言っただろう。クララ様にも用事の一つ二つあるさ。それより早く目薬の準備をしろ」
「はぁい」
 そうして、アリエルは先ほどと同じように、目薬を作るために硬い薬草と格闘し始めた。



 銀細工工房の旦那が帰った後になると、何人もの職人達がほとんどひっきりなしに薬屋を訪れるようになった。その殆どは五時通りの工房で働く人たちだ。
 やっと客足が途切れたと思ったら、空はもうすっかり夕焼け色である。
「今日は妙に客が多かったな。フェリックスめ、昼休みあたりに俺が縮んだと面白おかしく吹聴して歩いたな」
 レオナルドはぐったりと、定位置のカウンターに伏せった。実際、仕事の依頼というよりは新顔のアリエルと、子供になったレオナルドを見に来たといった客の方が多いようだった。
「いつもはこんな感じじゃないのね?」
「ああ、もっと人の出入りは少ない。普段はのんびりしたものだ」
 時刻はもはや夜である。
「ちょうど客足も途切れたし、そろそろ店仕舞いだな。夕飯にしよう。入り口の看板を掛け変えておいてくれ」
「はいはーいっと……ん?」
 毛布を抱えて大通りを走ってくる女の人が目に入った。
「レオさん、もうちょっと待って」
「どうした」
「薬局にお客さんかもしれない」
 待っていると、案の定彼女は薬局に転がり込んできた。
 真っ青な顔をした婦人だった。その腕にはぐったりとした小さい子供が抱かれている。
「これは人形師の奥様。娘さん、どうされました?」
 定位置から降り客を迎えたレオナルドに婦人は少し面食らったような顔をした。
「ああ、あんた小さいけどレオナルドさんよね。フェリックスさんに聞いたわ。ウチの娘が熱を出しちゃって大変なの、さっき急にぐったりして」
 婦人はおろおろとして、落ち着かない。
「昼は元気だったのよ、元気すぎるくらい。旦那に付いてあっちこっち飛び回ってたんだから」
 アリエルは婦人の背に手をやり、ソファに誘った。
「奥様、落ち着いてください。娘さんをこちらに寝かせてあげてください」
 レオナルドは青い花弁の入ったガラス瓶を戸棚から出すと、アリエルに小声で言った。
「アリエル、俺は娘さんの様子を見るから、この茶を淹れて奥さんに飲ませてやってくれ」
「このお茶は?」
「精神を落ち着かせる効果のあるハーブティだ。まずは親が落ち着かんことには、子供は不安がる」
 今日一日で薬の煎じ方の基本は確認したのだ。茶を淹れるくらいは朝飯前である。時刻で言うなら、今は夕飯前だが。
 婦人はそっと娘をソファの片方に横たえると自分はもう一脚のソファに腰掛ける。不安でたまらないというように、そわそわとしている。
 レオナルドは少女の手を取り、顔を観察している。
 それを横目に、アリエルはカウンターのコンロで湯を沸かし、レオナルドに渡された茶を淹れた。白いティーカップに注いでみると、花弁の通りに澄んだ青色のハーブティだった。
「お茶、淹れました。どうぞお飲みください」
 カップを差し出すと、婦人は少し驚いたようだった。
「私に? ……ええ。どうも、ありがとう」
 それを飲み干した婦人は、少しだけ落ち着いたように見える。
「うーん、高熱と発汗、浅い呼吸……嘔吐はなし。おそらく熱中りだな。昼間飛び回っていたんだろ。大人は大丈夫でも、子供はまだ体力がないからな。水を飲んで寝ろ、と言いたいがそれでは心許ないだろうから、体温を下げ、脈を落ち着かせる薬を出そう」
 レオナルドがそう言うと、婦人は安心したようにほっと息をついた。
「アリエル、白湯を持ってこい」
「今、お茶を淹れたお湯の残りでも構わないかしら」
「ああ、それでいい」
 アリエルはコンロのところに戻り、薬缶に残っていた湯を陶器の湯呑に移した。レオナルドは薬棚からいくつかの粉薬を取り出す。
「飲めるか? これを飲めば楽になるぞ」
 少女はうっすらと目を開け、緑色や茶色の粒の混じった粉末を見るとイヤイヤと首を振った。
「にがいの、イヤ……」
 レオナルドはため息を吐いた。
「苦いのは嫌、か……小さい子には酷かもしれんが、薬なんだから諦めろ。薬を飲んだ後でなら飴でもくれてやる」
 それを聞いても、少女はイヤイヤと薬を口にしようとはしない。
 アリエルは黙ってその様子を見ていたが、ふとあることを思い出した。
 こっそりキッチンに行くと花蜜の瓶を持ち出し、
「力を貸してね」
 と語りかける。
 店に戻ると、少女はまだ薬を飲むのを拒んでいた。
「レオさん、その薬ちょっと貸してください」
 アリエルの提案に、レオナルドはいぶかしげにアリエルを見た。
「何をする気だ?」
「まあ、見ててちょうだい」
 アリエルはふふっと微笑んで瓶を掲げ、レオナルドから薬を受け取る。湯呑の中にとろりとした花蜜を一さじ入れ、さらに粉薬も入れると、ゆっくりと歌いながらかき混ぜた。
“おいしくな~れ、おいしくな~れ”
 水の中の花蜜と粉薬はしばらくくるくると回っていたが、やがて溶けて薄い琥珀色の液体になった。
「これなら、飲んでみようって思える? これは甘い花蜜だよ」
 アリエルは少女に微笑みかけた。
 少女は疑うようにコップを睨んでいたが、いかにも苦そうな緑色でないことに少し気を許したようにそろりと薬を口にした。
 そのとたんに目を見開き、薬を一気に飲みきった。
「あまいー!」
 少女はまだ少し熱っぽい顔をしていたが、明らかに元気になった。婦人はほっとしたように胸をなで下ろした。
 代金を払うと、親子は仲良く歩いて帰っていった。
 大通りを遠ざかって行くその背中を見送っていると、レオナルドが口を開いた。
「お前、さっき何したんだ?」
「見ていたとおり、薬を花蜜に入れただけよ。薬でも甘ければ飲むでしょ? クララがしていたみたいにお茶に入れるのも悪くはないと思うけど、効果が変わっちゃう薬もあるじゃない? 今回処方してた薬草の組み合わせなら、花蜜に入れるのがいいかなあって。あとは『これは甘い』っていう暗示」
 レオナルドは頭をフライパンで殴られたような顔をしていた。
「そんな単純なものだったのか? しかし明らかに色が変わっていたようだが」
「なんか、苦い成分と蜜の成分が反応して色が変わるみたい。薬効のある成分はちゃんと残るから問題ないって母さんは言っていたわ」
「と言うことは、あれはお前のご母堂の知識か」
 レオナルドは興味を持ったようだ。
 アリエルは母を褒められて、少し気を良くした。
「他にもあるわよ。薬草によっては最初から蜜漬けにして使ったり、漬けた蜜の方を薬にすることもあるわよ。当然みんな甘いわ」
 レオナルドはその話に、さらに興味を持ったようだ。
「だいぶ詳しいみたいじゃないか。もっといろいろ聞かせてくれ」
 レオナルド期待するような視線を送ってよこしたが、アリエルは両手をぶんぶんと振る。
「待って待って、そんなに詳しくないから質問されても困るわ。思い出しておくから、また今度ね」
 そう言って、アリエルは扉に掛かっていた看板をひっくり返し、閉店の表示にした。
「そうか……。それじゃ、今度こそこれで店仕舞いだな。飯の支度をするぞ」
 レオナルドは少し残念そうな顔をしていた。