狐の村

 一歩一歩と踏み進めるごとに、てんつくてんつくと祭り囃子の様な音が大きくなっていく気がした。
 こんな時期に祭りなどしていただろうかと記憶をほじくり返しながら、俺は生まれ育った村へと一年ぶりに向かっていた。
 うちの村は、この平成の世ではびっくりするほど田舎にある。
 どのくらい田舎かというと、最寄りのバス停から獣道のような道を軽く三時間はハイキングする必要がある。その最寄りのバス停だって、森深い山道の途中にぽつんと立っていて、今や行きと帰り合わせても週に四本しかバスが来ない。普段利用者がさっぱりいないので、先ほどバスを降りる時には運転手に「本当にここで降りるのかい?」と確認されてしまった。冬になると雪のせいでたどり着くことさえ不可能になる。
 だから、大学生になり村を離れた俺は、夏休みの時期にだけこの村に帰ってくることにしていた。

「太郎兄ちゃん、お帰り!」
「おかえり!」
 どこかの家の夕飯の香りが漂ってくるくらい村に近づいた頃、転んで膝小僧を擦り剥かんばかりの勢いで、二人の子供が道の向こうから駆け寄ってきた。
 祭り囃子の音は、もう聞こえない。やはり気のせいだったのだろうか。
 俺が大学から帰省すると、どこで気配を嗅ぎ取るのか、いつも決まって村のチビ達が出迎えに来る。
 こいつらの目的はわかっている。俺がいつも土産に買ってくる都会の菓子が欲しいのだ。いつ帰るかなんて詳しい日程を教えなくても律儀に迎えに出てくるんだから、よっぽど待ち遠しいのだろう。
 こんな辺鄙なところにあるこの村では、甘いお菓子というのはめったに口にできないとても貴重な物なのだ。俺も街の高校に通うようになって同級生に教えられるまで、ほとんど口にしたことが無かった。
「おう、チビ太郎にチビ助。相変わらずちっちぇえな! 今帰ったぞ」
 そう言って左手に持った老舗デパートの花柄の紙袋を掲げてやれば、目をらんらんと輝かせる。
「兄ちゃん、大好き! お菓子くれよう」
「くれよう」
 早くくれとばかりに、俺の足下で二人はぴょんぴょん跳ねている。歩きにくくてかなわない。
「まあ待て。そんなに慌てなくても菓子は逃げないぞ。まずは家に入らせてくれよ」
 拗ねて俺の足下で丸くなる二人を踏まないように気をつけながら「また後でな」と声を掛け、村の道を歩く。
「太郎さん、お帰りなさい」
「坊主、しばらく見ないうちにでっかくなったな」
 道すがら出会う村人達は皆、俺に気づくと前と何ら変わらない笑顔を向けてくれる。
「ただいま戻りました。まだ家に顔も出していないので、また後ほどゆっくり話しましょう」
 いつもと同じく暖かく迎えてくれる村の皆に手を振り、俺は実家の門をくぐった。
「太郎坊ちゃん、お帰りなさいまし」
 しわがれた声で出迎えてくれたのは、昔から家で働いてくれているお藤婆さんだ。高校に行ってから知ったが、お手伝いさんがいる家というのはとても珍しいらしい。この家で育ったので疑問にも思っていなかったが、うちは実は名士の家だったらしい。
「お藤さん、ただいま帰りました」
 俺が幼い頃から全く変わらないしわしわの顔をさらにしわしわにして、お藤さんが玄関を開けてくれた。
「はい、旦那様も坊ちゃんのお帰りを今か今かとお待ちですよ」
「父さんが待ってるのは、俺じゃなくて、こっちじゃないのかな」
 土産の青い紙袋を軽く持ち上げてやれば、お藤さんは「まあ、まあ」と目をまんまるくしていた。
 お藤さんに土産を渡し、いつからかやたらと軋むようになった板張りの廊下を歩くと、長いこと家を離れていた実感がやっと湧いてくる。
 一番奥の部屋のふすまの前まで来ると、そこで一度正座する。
「ただいま戻りました」
 そう声をかければ、部屋の主のくぐもった返事が聞こえてくる。
 入室の許可がいただけたようなので、すらりとふすまを開ける。
 部屋の中には記憶と寸分も違わない、真っ白なひげでもこもことした父が、肘掛けにもたれながら座っていた。くわえているのは、確か一昨年に父に土産に持ってきたキセルだ。まだ二年しか使っていないと信じられないほどに、傷やシミがついている。よっぽど使い込んでくれているのだろうか。
「太郎や、お帰り。大学生活はどうかね?」
「はい、つつがなく過ごしています。最近、同じ県内出身という友人ができました」
「それはなによりだ」
 そう言って父はキセルから口を離し、ぷかりと煙をはいた。あの毛むくじゃらのひげがよく燃えないなと、俺は物心ついた時から密かに感心している。
「生涯の友。善哉善哉。それはお前を裏切らない味方になる」
 そう言うとキセルの灰をコンと捨て、立ち上がった。
「では、お前の土産をいただくとしようか。ちゃんと買ってきただろうな?」
 そう言って父は巨体を揺らした。見るからにそわそわしている。
「はい、ふしみ屋のいなり寿司ですね。しかと買ってきましたよ」
 俺がそう答えれば、父は喜色満面にぽふぽふと手をたたき、お藤さんを呼んだ。
 いつもと何も変わらない俺の故郷。帰ってくるたびに、暖かく俺を迎えてくれる村の皆。
 いつ帰ってきても、何も変わらないのだ。
 何も。

 翌朝。ちゃぶ台の向かいに座る父は、昨日の土産のいなり寿司をちびりちびりと口にしている。
 一口に食べてしまうのが勿体ないくらい、このいなりが好物なのだと聞いたのは大学一年の時の夏休みだったか。
 背後の縁側にはチビ太郎とチビ助が来ていて、同じく土産のチョコレート菓子をお藤さんからもらっていた。こちらは不思議そうな顔をしてにおいを嗅いだり、こわごわと口に運んだりしている。おそらく俺が買ってくるまで、チョコレートを見たことも無いのだろう。
「父さん、少しよろしいでしょうか」
「なんだね」
 父は怪訝な顔を俺に向けた。
 俺は、背筋を正し、深く息を吸いこんだ。
「同じ県内出身の友人ができたと言いましたね。彼が気になることを言っていました」
 俺は、聞いてはいけないことを聞こうとしているのかもしれない。けれど、その話を聞いた時から俺は、鳩尾あたりに鉛を抱え続けているような感じがずっとするのだ。
 もはや聞かずにはいられない。俺は、一大決心をした。
「彼は、この村を知らないと言っていました。最初はここが小さな集落だからだろうと思っていましたが、俺の話を聞いてから、彼はこの村を探しに来たと言うのです。しかし、彼は村にはたどり着けず、荒れた廃村があっただけだと」
「道を間違えたんだろう」
 父は、俺の言葉の最後を待たずに言った。
「ですが、バス停からここまでの道は、一本道です」
「では、皆が畑仕事にでも出払っている時にでも来たのだろう。荒れた廃村とは、失礼なことを言ってくれる」
 話はそれだけか? とでもいいだけに、父が視線を送ってくる。しかし、俺の抱えた鉛の塊は消えない。
 その時、縁側の方から鋭い悲鳴と獣のようなうなり声が聞こえた。
 そちらを見れば、チビ助が腹を押さえて苦しんでいる。少し嘔吐したようだ。チビ太郎はすっかりパニックを起こして金切り声を上げている。獣はいない。襲われたわけではなさそうだ。
「どうしたんだ!?」
 俺が慌てて縁側へ降りると、目を疑うような光景が待っていた。
 パニックを起こしているチビ太郎の頭には、銀色のとんがった耳がぴんと二つ立っている。尻には、同じく銀色の毛がすっかり逆立ったしっぽ。
 はっとしてチビ助を見れば、こちらはもはや人の姿をしておらず、完全に銀色の犬のような姿になっていた。
「ど、どういうことだ」
「先ほどの質問が出たことを考えれば、何となく気づいていたのではないのかね」
 背後にゆらりと父が立った気配がした。
 わずかに衣擦れの音を立てて、父はチビ助の近くに跪いた。
「うっかりしておった。これはちょこれゐとという菓子じゃな。人間にはただの菓子じゃろうが、儂ら狐には、毒になる……」
 そして、チビ助の様子をまじまじと見て、軽くチビ助の背中を叩いた。
「食べた量も少しのようだし、全部吐き出したのならそう大事にもなるまい」
 ふうと息を吐き出すと、父は俺の方を振り仰いだ。
「いつかは話す時が来るじゃろうとは思っておったが、その時が来てしまったようじゃな」
 父の金色の双眸が俺を射貫いた。
「太郎、お前はこの森に捨てられていたのじゃ。それを狐の儂が見つけ、群れの皆で育てようと決めたのじゃ。この村はお前を育てるために、皆で人里のまねごとをしておったのじゃ」
 俺は、何も言えなかった。
 なんとなく、この村がおかしいことには気づいていたが、まさか本当にそんな馬鹿げた話があるものか。狐が、人の子を育てるなんて。
 だが、俺は確かに人間で。
 チビ太郎には狐の耳としっぽがあって、チビ助は狐の姿になった。
 長い沈黙が落ちる。
「……では、俺の本当の両親は?」
「わからぬ。皆で探ったこともあったが、見つからなかった」
 父と呼んでいたモノがうなだれるように首を振った。
 気づけば、庭に村中の人達が集まってきていた。俺が幼い頃から全く姿形の変わらない、気のいいヒト達。
「……彼らも皆、狐なのですか?」
「そうじゃ、この村に人間はお前しかおらぬ」
 村人の誰かが息を呑んだのが聞こえた。
「真実を知ってしまったからには、儂らはもうお前の家族のふりはしてやれん。ウカ様とはそういう契約じゃった」
 そういうと、父だった姿がぼんやりと薄れ、代わりに大きな薄銀色の狐がそこに居た。
「お前も、もう立派な大人になった。これでお別れじゃ」
 そう言うと、大きな白狐は山へ駆けだしていった。
 村人達も名残惜しげに振り返りながらも、狐の姿に戻り、白狐に続いて山へ駆けていった。少なくとも、俺には寂しげに見えた。
 最後に、チビ太郎とチビ助もふらつきながらも行ってしまった。
 狐達の後ろ姿がさっぱり見えなくなった頃、妙に風が吹くことに気づいた。
 外に出てみれば、村の様子はすっかり様変わりしていた。
「あいつが見たのは、この景色か……」
 とても人が生活しているとは思えない、穴だらけの荒れた家が残されているだけだった。

 野宿するわけにもいかないと、棒のような足を動かしてバス停へと向かう途中、今まで無かったはずの真っ赤な鳥居が森の中に佇んでいることに初めて気づいた。
 誘われるように苔むした石のでこぼこした参道を行くと、狐の石像に守られているような小さな社があった。そこには食べかけのふしみ屋のいなり寿司とかじった後のあるチョコレートが転がっていた。