一本の鉛筆

「嘘、ない、ない!」
 私は焦って鞄の中を必死で探す。しかし、目的の物は何度探っても出てこない。
 一度落ち着いて、今度は鞄の中身を一つずつ机の上に取り出して、丁寧に確認する。腕時計、ハンカチ、ティッシュ、財布、お弁当、参考書、そして受験票が並んだところで鞄の中はカラになった。やはり無い。
「どうして今日という日に忘れ物なんかしちゃったの、私!」
 私の顔はもう真っ青だ。
 同じ教室内に知り合いはいないので、隣の教室で同じく受験する友だちに頭を下げて貸してもらおうかと思ったとき、監督役の先生が教室に現れた。そして解答用紙を配り始める。

 終わった。私の人生、終わった。

 そう確信したとき、隣の席に座っていた男の子が小さく声をかけてきた。
「高校入試の日に筆記用具忘れるなんてドジだね。いいよ、一本だけ貸してあげる」
 そう言って彼は鉛筆をこっそり差し出してくれた。
「あ、ありがとう……」
 地獄で仏とはこのことか、と感激しつつ鉛筆を受け取る。私は、あまりの恥ずかしに俯いてしまった。
「その様子じゃ俺の敵じゃないかな」
 不意に彼が笑う気配がして、反射的に私は顔を上げた。
「あ、いや、ごめんね。あんまり緊張してると実力発揮できないだろ。忘れ物してテンパるのも分かるけど、この高校に入りたくてキミもここまで来たんだろ?」
 彼は今度は優しげに微笑んだ。その笑顔があまりにかっこよくて初対面の人だというのに、私はちょっと見とれてしまった。
「この俺の鉛筆を使うんだ、中途半端な結果は出さないでね」
 彼は最後におどけるように言って、視線を前に戻した。解答用紙が回ってきたのだ。
 私も慌てて前を向く。ちょうど私にも解答用紙が回ってくる。
「解答用紙はまだ裏向きにしておけよ。全員に行き渡ったか? それじゃ、解答始め」
 監督の先生の号令で、みんなが一斉に問題冊子の表紙をめくった。私も、たった一本の鉛筆を握りしめて問題を読み始めた。
 同時に、彼は鉛筆を貸してくれただけでなく、私の緊張もほぐしてくれたんだと気づいて、後でもう一回ちゃんとお礼をしなくちゃと考えていた。

 最初の科目が終了した。
 私はなんとか無事に問題を解ききることができた。途中で落として芯を折ったり、書けなくなったりしなくて本当に良かったと思う。
 彼にちゃんとお礼をしなければと思い隣を見ると、彼の周りにはすでに人が集まっていた。どうやら彼と同じ中学の男の子達らしい。彼と答え合わせをしているようだ。
 今話しかけるのはちょっと気まずいかなとためらっていると、私の方も友だちが他の教室から集まってきた。
 友だちとさっきの試験の問題がどうのと反省会をしたり、次の試験の予想問題を出し合ったり、実は筆記用具忘れたと告白したりしていると、あっという間に休憩時間は終わってしまった。
 次の試験監督が教室に入ってくる。この時間に彼と話すチャンスはもう無いということだ。
 友だちが予備の鉛筆と鉛筆削りを貸してくれ、さらに消しゴムも千切ってくれたので、今度の試験はもう大丈夫だと、精神的に落ち着いていられる。友だちには本当に感謝している。
 だけど彼と話せなかったので、私はちょっとだけ友だちを憎らしく思ってしまった。

 今日の試験が全て終了しても、私は彼と話せなかった。
 休憩時間のたびに彼の周りには人が集まった。本当に人気者のようだ。頭が良いのか余裕があるし、気も配れるし、笑顔だってあんなに素敵なんだから、当然なのだろうけれど。
 そうして話しかけるのをためらっているうちに、いつの間にか彼は友だちと一緒に帰ってしまったようだ。
 私も友だちに促されて、仕方なく帰路についた。
 友だちから借りた鉛筆はすでにお礼のチョコレートとともに返した。しかし、返せなかった彼の鉛筆は私のコートのポケットに入ったままだ。
「私、彼の名前も知らないんだよなあ」
 ぽつりと呟いたつもりだったけど、友だちは耳聡く聞きつけたようだ。
 彼女には最初の休憩時間の時に、隣の男の子が鉛筆を貸してくれた事だけは話してある。
「彼って、鉛筆貸してくれた子のこと? それなら高校入ってからでもチャンスはあるよ!」
「私が合格できてたらね……」
「なによ、ずいぶん弱気じゃない」
 にかっと笑うと彼女は、しゅんとうなだれる私の背中をばんと叩いて景気づけてくれた。わざとらしいまでに明るく励ましてくれる友だち。
 彼女も合格しているかどうかはわからないのに、私の事を思ってくれるのがとても嬉しかった。

「いよいよ発表だねええ」
「ドキドキするよおお」
 今日、私は合格発表を見に、友だちと一緒に再びこの高校の敷居をまたいだ。試験の時には無かった大きな掲示板が校門を入ってすぐの所に設置されている。ここに合格者の受験番号が張り出されるようだ。
 今はまだ張り出されておらず、あちこちに私たちと同じような子が、発表の時を待っている。私と違って、みんな自信ありげに見えるのは、私の気のせいだろうか。
 私は不安で胸がつぶされそうになりながらも落ち着かなくて、鉛筆の彼が居ないか辺りを見回った。もしかしたら、これが彼に会える最後のチャンスになるかもしれない。もちろん、あの鉛筆も持ってきている。
 しばらくうろうろしてみたけれど、彼は見つからなかった。遠方からの受験生は見に来られない人も居るので、彼もそうなのかも知れない。
 小さく肩を落としていると、壮年の男性が大きな紙を抱えて出てきた。いよいよ発表だ。彼を探すのは一時中断して、掲示板の方へ、友だちと一緒に行く。
 受験票の番号を頭に刻み込んで、ひとつひとつの数字が一致しているかを丁寧に見ていく。
「あっ……」
 あった。私の番号、あったよ!
 隣を見ると彼女の番号もあったようで、彼女も上気した顔をしている。
 ふと目が合い、私たちは抱き合い飛び上がって喜んだ。
「もうダメかと思ってたあああ」
「私もだよおおお」
 試験当日には、私にあんな事をを言っていた彼女も、やっぱり不安だったみたいだ。一緒に合格できていて、本当に良かった。彼女とまた三年は同じ学校で過ごせると思うと、とても嬉しい。
 しばらくして興奮の波が引いていくと、やっぱり彼のことが気になった。
 もう一度見回してみたけど、彼は見つからなかった。せめて、彼の受験番号だけでも確認しておけば良かったとぼんやり思った。

 四月。今日は入学式の日だ。私はこの日を心待ちにしていたような、まだ来て欲しくなかったような、不思議な心地で高校の敷地をみたび踏んだ。前と違うのは、今日は中学の制服でなく、ここの高校の制服を着ていることだ。
 しかし今回も、彼の鉛筆は持ったままだ。きっと遠くないうちにまた会えると、根拠もなく信じているけど、一体どこの誰なのか未だに分からずじまいだった。



 入学式。新入生総代宣誓の時にそれは起きた。驚きのあまりに叫んでしまうのを我慢できた私を、誰か褒めて欲しい。
 名前を呼ばれて壇上に上がった生徒は、確かに見覚えのある人だった。
 堂々とした新入生総代の言葉、目を奪われる素敵な笑顔。確かに鉛筆の彼だった。
 じいっと見つめていると、壇上から降りてくる途中の彼と、ふっと目が合ったような気がした。
 気のせいかと思ったけど、彼は確かに私を見て、口だけでこう言った。
『約束、守ってくれたね』
 そして、何事も無かったように彼は新入生の列の前の方に戻っていった。

 式終了後の学級会の間、私はずっとそわそわしていた。幸か不幸か、彼と同じクラスではなかった。でも、同じ学年に彼が居るんだ。
 いてもたってもいられずに、学級会が終わったらすぐに教室を飛び出した。
 どのクラスだろう。
 私は同じ階の全ての教室を覗いて回った。あまりに周囲に気を取られすぎてしまったのだろうか。階段の角で誰かにぶつかってしまった。頭上でその人が小さく吹き出した。
「やっぱりドジっ子なんだね」
 聞き覚えのある声だった。振り向けば思った通り、ずっと探していた彼だった。突然の事に、私は戸惑った。
「あのっ、鉛筆返しに、私っ」
 ポケットから彼の鉛筆を取り出して思わず握りしめる。
「この状況でそうくるのか」
 彼はクスクスと笑っている。
「あっそうよね、ご、ごめんなさい」
 かあっと顔が熱くなる。
「あわてすぎだよ。でも、ま」
 そう言いながら彼はするっと私の手から鉛筆を抜き取る。そして鉛筆にそっと口づけた。
 私は頭が真っ白になって固まってしまった。
 そんな私を見て、彼は今までに見たこと無い意地悪そうな笑顔で言った。
「高校生活は三年もあるんだし、これからよろしくね?」