一本のバラ
俺は小さな町の花屋さん「花とパピヨン」の店主だ。そこそこ繁盛はしていると思う。
ここ半年くらい、毎週水曜日の昼過ぎくらいの時間になると、決まって可愛らしいお客様が現れるようになった。十歳くらいの少女だろうか。
彼女は近くの小学校に通っているらしく、綺麗な赤いランドセルを背負ったままでここを訪れる。
そして、必ず一本だけバラの花を買っていく。色はその時の気分で決めているらしい。
俺が時計を眺めながらそろそろ来るかなと考えていると、やっぱり彼女は今日もやってきた。
昼下がりの、客も少ない時間帯だ。
俺はレジを離れて、バラのショーケースを眺めていた彼女に近づいた。
「いらっしゃいませ」
声をかけると、彼女は俺を見上げて微笑んだ。
名前も知らないけれど、彼女はこの店の常連中の常連だ。俺の顔もすっかり覚えてしまったのだろう。
「今日はピンク色のをください」
大の男に話しかけられても怯えた様子もなく、にこりと注文を口にする。
「はいよ」
俺も慣れたものだ。一番輝いているピンクのバラをバケツから抜き取り、トゲを丁寧に処理して綺麗にラッピングする。
それを手渡してやると、彼女も赤い小さな財布から百円玉三枚を代わりに渡してくれる。
そうして売買が成立すると、彼女は小走りに店を出て行くのだ。
その後に向かう先を、俺ははっきりと尋ねたことはない。
けれど何度か短い会話するうちに、どうやら彼女はここから道なりに進んだ先の市立病院に向かっているらしいことが知れた。
誰かは分からないが、彼女に近しい人が長いこと入院しているようだ。
俺は、いつか彼女が常連でなくなる日のことを考えた。
それは彼女にとって喜ばしい日、つまり見舞いの相手が退院する日であってほしいと願う。
あの可愛らしい頬が悲しみの涙に濡れるのは、見たくない。
もっとも、ここまで俺の仮定に基づいた想像であるわけだけれども。
次の週も、また次の週も、彼女は「花とパピヨン」を訪れた。
そして一本だけバラを買って、また小走りに市立病院の方へ向かっていった。
その日も水曜日だった。
今日もそろそろ彼女が来るだろうかとぼんやり入り口の方を見ていると、顔をゆがめた彼女がやってくるのが見えた。
彼女の尋常でない様子に、俺は思わずレジを放棄して近寄った。
「どうかした……」
「青いバラはありますか」
彼女は俺の顔を見るなり、強い目でそう言った。心なしか、顔色が悪い。
「いや、うちでは青いバラは扱ってないですね……」
彼女の気迫に圧倒されて、俺はバラのショーケースの方へ視線を彷徨わせた。
彼女は明らかにがっかりした顔をして、
「じゃあ、今日は赤いバラをください。葉っぱがたくさん付いているバラ」
と言った。
俺は注文通りにバケツの中から一番葉の付いた赤いバラを抜き取ると、葉っぱが落ちてしまわないように丁寧に包んだ。
それを三百円と引き替えに手渡すと、彼女はおもむろに包みを破り捨てた。無心に葉を摘み取ると、葉は大切そうに鞄にしまい込み、バラの花は俺に突き出した。
思わずそれを受け取ると、彼女は病院の方へと走り去っていった。
いつもは花の色は気分で決めているらしいのに、今日は何かはっきりと意図して色を指定してきた。
バラは色ごとに花言葉が決められている。有名なのは白が『尊敬』、ピンク色が『上品』といったところだろうか。
青いバラの花言葉は『奇跡』あるいは『神の祝福』だ。赤は『情熱』だっただろうか、彼女の意図がわからない。
ついでに興味深いことに、バラは葉にまで花言葉がある。『希望を持って』だ。
彼女の大切な人、あるいは彼女自身に一体何があったのだろうか……。
次の週、俺は彼女の言葉が気になったので青いバラを仕入れた。白いバラを着色した物だけど。
水曜日の昼過ぎ、そろそろ彼女がやってくる時間だ。
しかし、彼女は現れない。俺は、ぼーっと入り口を見つめていた。
いつもの時間をとうに過ぎても、彼女は姿を現さなかった。
俺は彼女が気になって、ついに青いバラを手にして店を出た。
店は臨時休業だ、仕方が無い。
俺の足は、自然と市立病院へと向かった。まあ、それ以外に手がかりもないし。
ナースセンターを覗いた時、俺は尋ねるべき名前を知らないことに気づいた。
どうしたものかとエレベーターの前でうろうろしていると、一人の患者がストレッチャーで運ばれてきた。
その患者の顔を見たとき、俺は脳天を金槌で殴られた気がした。目を閉じてはいるが、彼女だ。
「す、すみません。その子」
考えるより先に、俺は彼女に付いていた看護師の一人を呼び止めていた。
看護師は驚いたように俺を見て、次にバラの花に目を留めた。
「ひょっとして、この子がよく言っていた花屋のお兄さんかしら?」
「たぶんそうです、すみません。俺、その子の名前知らなくて」
あまりにもものを考えずに発言してしまい、思わす顔に熱が集まる。
「いえ、えっと、いつもは毎週同じ時間に来るのに、今日は来なかったから気になっちゃって」
何を言い訳じみたことを、と思うが、口から出た物は取り戻せない。
あたふたする俺とは対照的に、しかし彼女に付いていた看護師は微笑んだ。
「そうですか、それでお花を持ってお見舞いに来てくれたんですね。実はこの子、今日、手術を受けていたんです。無事に終わったので、今は麻酔で眠っていますが、後は目を覚ますのを待つだけです」
俺は思わずバラを握りしめた。
「悪い病気、だったんですか……?」
「いいえ、もう大丈夫です。お兄さんもお見舞いに来てくれたのだし」
看護師は有無を言わせないような迫力でにっこりと笑った。
「さあ、この子はまだ眠っているので。バラは私が花瓶に生けておきますから」
そう言うと俺の手からバラを受け取り、彼女を乗せたストレッチャーごと去って行った。
折角彼女に会えたのに、あっという間に別れてしまった。
結局、あの子の名前はわからない。
俺は小さな町の花屋さん「花とパピヨン」の店主だ。そこそこ繁盛はしていると思う。
しかしここ五年くらい、毎週水曜日になると決まって現れていた可愛い常連さんが来ていない。
ちょうど、あの子の手術の日に偶然顔を見られた時が、あの子に会った最後の日になった。
名前も結局分からず終いだったので、あれ以降会うことは叶わなかった。
思えばいろいろおかしな所はあった。
まず、いくら小学生とはいえ、正午を少し過ぎたくらいでは帰宅できない。彼女がいつもの時間に現れるには学校をサボる必要がある。つまり、本当は学校帰りに寄ってるんじゃなくて、入院中の自由時間にこっそりと出かけてきているという事だったのだろう。
それから、妙に綺麗なランドセル。入学したての一年生ならいざ知らず、普通に学校生活を送っていれば傷の一つもつくだろう。彼女のランドセルは、おそらく一度も学校に持って行かれたことがないのだ。
彼女が最後に買った、葉をむしり取った赤いバラの意図も気になる。
今日はちょうど水曜日だ。あの頃ならば、彼女がやってくる時刻だ。
何となしに入り口を眺める。今日も店は平和だ。
すると、ふいにセーラー服の少女が現れた。
「ふふっ、この店まだあるんですね」
俺は、そのいたずらっぽい笑顔に懐かしい面影を見た。
「……バラの子」
俺は思わずレジから立ち上がると、彼女は鞄から何か紙切れのようなものを取り出した。
「看護師さんから聞きました。手術の日に青いバラを持ってきてくれたんですね」
そう言って、手にした紙切れを俺に見せてきた。青いバラの花びらを押したしおりだった。
「私、あの後すぐに田舎に移されちゃって、お礼を言いに来れませんでした。ずっとここに来たかったです。やっと来れました」
彼女は満面の笑みになった。
「本当は良くなる確率はすごく低かったらしいです。でも、今はすっかり良くなりました。お兄さんの青いバラのお陰だと思います。あの時は、本当にありがとうございました」
それから、ちらっと俺の手元を見て頬を赤く染めたように見える。
少しの間、彼女は何かを言いたそうに口を開いては閉じを繰り返し、やっと意を決したように何か気合いを入れて俺を見た。
「……あれから五年も経ってしまったから心配だったんですけど、お兄さん、まだ決まった相手はいませんね? それなら、もうあと一年くらい待っててくれませんか?」
あの頃の彼女は、俺の見当が外れていなければ十歳だ。あれから五年、さらに一年となると、彼女は十六歳。
十六歳と言えば、……おや?
※ この話を書いた頃は、女性は保護者の同意があれば16歳で結婚できていました。(2023/08/15追記)