野分のあと。

 今日も今日とてふらふらとほっつき歩いていた彩王は、下界の様子にふと気づいて足を止めた。
 天界の至る所には「現映鏡」という物がある。見た目は、その名の通り鏡だったり水を張った盆だったりと様々だが、それらは皆、下界の様子を映し出すという性質を持っていた。
 彩王はそのうちの一つ、小さなため池の形をした現映鏡に目を留め、しゃがみこんだ。そこには黒い雲が低く垂れ込め、強い風雨が吹き荒れ、人々が慌てふためく様が映し出されていた。
「野分じゃ」
 彩王はほんの少しだけ痛ましそうに目をすぼめた。
 春と夏の神である彼女には、これをどうすることも許されなかった。越権行為になってしまう。
 鏡をじーと見つめていると、彩王の背後からさくりと枯れ草を踏む音がした。
「最近の人はその現象を『台風』と呼ぶそうですよ」
 ゆらりと現れたのは幽王だ。
 彩王は一旦振り返って彼の姿を認めると、すぐに視線を鏡に戻した。
「たいふう……いかにも強い風といった名じゃのう。情緒のかけらも無い」
 そうは言いつつも、彼女は心配顔だ。
「あっ、傘がひっくり返った……のう、幽王よ。ちいと可哀想な気がするんじゃが、どうにかしてやれんかのう?」
 秋と冬の神である幽王ならば、台風に干渉することができる。
 彩王は眉を八の字にして幽王を見上げた。
 幽王はその視線を受けて、ほんの少し目を細める。
「貴女はいつまで経っても人に肩入れをしすぎますね。いくら神でも、天気に干渉してはいけませんよ」
 幽王は仕方ない、といった風にため息を吐いた。
「それよりも金華宮の皆さんが、また彩王が仕事をしないと言って困っていましたよ。野分よりも先にしなければいけない仕事があるのでは?」
 彩王はむうっと口をとがらせた。
「それを言いに来たのか。そんなことより、野分では死者が出ることもあるのじゃぞ」
「そうしたら、私の出番ですね」
 幽王は死を司る神でもある。対する彩王は生の神である。どうあがいても、意見が一致する目は無い。
 不機嫌になる彩王に、幽王は意外そうな顔をした。
「貴女は騒ぎを好む質でしょう。このような出来事は、むしろ心躍るのでは?」
「それとこれとは話が別じゃ。やたらと命が終わるのは悲しい」
 彩王はすねるように幽王を睨んだ。
 幽王はあごに手を当て、どうしたものかと思案した。
「貴女の言うことも分かりますが、だからと言って天の理を曲げるわけには……そうだ、うちに団子が届いていました。一緒にどうです?」
「団子で話を逸らそうとするでない! ……しかし、団子に罪は無いのじゃ。いただこう」
 彩王はしぶしぶ、といったように立ち上がった。

 幽王の宮、髄晶宮は静かだった。
 いつもは彩王が来ると幾分か賑やかになるものだが、今日はその彩王がだいぶ大人しいので、幽王はいつもに増して静かなような気がした。
 幽王の室の長椅子に座っていると、采女達が心得たようにお茶と団子を音も無く運んでくる。
 彩王はその団子をひとつ摘まんで口に放り込んだ。
「団子じゃ」
「ええ、団子ですね」
 幽王は自分の気候儀で手すさびながら、気のない返事をした。
 いつもの彩王ならそこでさらに何か一言来るものだが、今日はそのまま黙々と団子を口に運ぶ。
 そのまま静かな時が流れた。

 しばらくして、幽王は天候儀を彩王の目の前に置いた。彩王は何事かと幽王を見上げる。
「彩王、少し付いてきてください」
 短く告げると、幽王は彩王の返事も待たずすっと廊下へ出て行った。
 彩王は慌てて団子を飲み込んで、胸を叩きつつ幽王を追いかけた。
 やがて、幽王は一枚の鏡の前で足を止めた。髄晶宮の中にある現映鏡だ。
「彩王、見てください」
 彩王が鏡を覗けば、ほとんどまん丸な月が雲ひとつ無い空に昇っているのが見えた。耳を澄ませば、鈴虫の声が聞こえてくるような気もする。
「野分が空の余計な物を吹き飛ばしたので、月が綺麗に見えるでしょう」
「……静の神が好みそうな光景じゃの」
 彩王はまた口をとがらせている。しかし、同時に頬が緩みかけているので、もはや意地ですねているだけのようだ。
 幽王は小さく息を吐いた。
「動の神のお気には召しませんでしたか?」
「妾にも、綺麗な物を綺麗だと思う心くらいはあるぞ」
 今度は本当にすねたように幽王を睨む。
 少女のような彩王が睨んでも大して迫力は無いが、幽王はほんの少しだけ焦った。
「彩王、そんな顔をしないでください。折角中秋の名月が顔を出してくれたんですから」
 その言葉に、彩王ははじけるように顔を上げた。
「失念しておった。そうじゃ、芋名月じゃ。そういえば、うちの宮にも里芋が届いておった」
 彩王はにわかに元気づいて、幽王の裾を引っ張った。
「舟じゃ! 月見といったら舟遊びじゃ! それから、団子と芋も持ってこようぞ。薄もはずせんのう!」
 下界の台風が去った安心感もあってか、彩王は大はしゃぎだ。
 幽王は、季節も天気も関係ない天界では月見などいつでも関係ないのだが、と考えたが、折角元気を取り戻した対の神にあと少しだけ付き合ってやろうと裾を引かれるままに宮の外へ出た。