茶の花の開く。

 下界を流転していた玄流水帝の江姫が、久しぶりに幽王の居城である髄晶宮へと顔を出した。

「お久しぶりです、幽王。ただいま戻りました」
「ああ、江姫。お帰りなさい」

 幽王はひととき仕事の手を止め、めったに顔を合わせることのない己の配下を室に迎え入れた。

「しかし、……またすぐに出るのでしょう?」
「仕方ないじゃないですか。水はひと所に留まると澱んで腐ってしまうもの。わたしはこの流浪生活も気に入っていますよ。黎玖邸を任せている柚雪(ゆゆき)には悪いですが」

 江姫は北方領域の主で、水を司る者である。その性質から、北方領域内に屋敷を持つにもかかわらず、常に世界を旅して回っている。
 そして、旅先で出会った妖などの類を眷属として拾ってきてしまう困った女神でもあった。柚雪もそんな眷属のひとつだった。
 江姫は足音を忍ばせて幽王に近づくと、幽王の仕事机の上にコロンと丸めた薬草のようなものをいくつか置いた。

「書簡の上に置かないでいただきたいのですが……」
「眉間に皺を寄せてばかりいないで、少し休憩したらいかがです? お土産の工芸茶です」
「良い香りですね。……工芸、とは?」
「見るが早いですね。ガラス製の茶器はありますか? 無ければ、口の大きな湯呑みを」

 江姫が声を掛ければ、采女はすぐさまに動いた。やがて透明なガラス製のティーセットを持って戻ってきた。

「ちょうど良いものがあるじゃないですか。ではわたしとお茶しましょう」

 言うが早いか、江姫は幽王の執務室の応接机に陣取ると球のように丸めた茶葉をひとつポットに落とした。その上から采女の持って来た湯をたぱたぱと注ぐ。蓋を乗せると、仕上げとばかりに砂時計を傍らに置いた。

「この砂が落ち切れば、飲み頃ですよ」
「では、それまで仕事の続きを……」
「駄目ですよ。この待ち時間も含めての『お茶する』ですよ」

 そう言って、幽王の裾を引いた。
 幽王は逡巡したがすぐに諦め、江姫に引かれて仕事机を立ち、長椅子に腰掛けた。

「誘ったからには、何かあるのでしょうね」
「いつから幽王はそんなにせっかちになったのです? 何も考えずにぼんやりとする時間も良いものでしょう」

 幽王は静寂と停滞を司るものだ。忙しなく仕事をするというのは、確かに本来の性分ではない。はずだ。
 気づかないほどゆっくりと、しかし確実に誰かの影響を受けていることを感じて幽王は苦笑いした。

「……道理ですね」

 幽王は長椅子に身を預けた。
 二柱の神はそれ以降は特に会話をするでもなく、ただ、お茶が飲み頃になるまでの静寂を共有していた。サラサラと、砂の落ちる音が微かに室に響く。
 砂時計の砂というのは全体が均等に下に落ちるのではなく、中心部から吸い込まれるように落ちていくのだなと幽王は砂時計を眺めていた。

「もうそろそろですよ」

 ふいに江姫が幽王に声をかけた。しかし、砂時計の砂は依然として半分は残っているように見える。

「まだ早いのでは……」

 幽王はポットに目を向け、そして息を飲んだ。
 湯の中でゆらゆらと茶葉が広がり、まさに今綻んでいくところだった。茶葉の中からは赤い蕾が現れ、誇らしげに花開く。

「花……ですか?」
「驚いたでしょう。職人が一つ一つ丁寧に丸めて作るんだそうですよ。きっと彩王も喜ぶと思うので、いくつか置いていきますね」
「はい……彩王もそのうち来ると思うのですが、貴女が直接渡さなくて良いのですか」
「いつ来るか分からない方をお待ちするのは、少し不安です。待っている時ほど来ないものではありませんか」

 江姫は流水の女神だ。あまり長くひと所に居ると穢れをもたらしてしまう。

「そういうことなら、お預かりしましょう……」

 幽王は彩王を今度茶に誘おうとして、はて、あれは静かに待つことができるだろうかと勘ぐった。
 それでも、誘ってみるのも良いかもしれない。
 いつもは勝手に来る彩王を、態々誘うのだ。きっといつもとは違って、穏やかな時を過ごせる……かもしれない。
 気づけば砂時計の上半分は、もはや伽藍堂になっていた。

「おや、飲み頃になっているようですね。出過ぎてしまう前にどうぞ。茉莉花の香りのする茶ですよ」

 江姫は二つの茶杯にとぽとぽと茶を注いだ。

「では、いただきましょう……」

 幽王は鼻を抜ける花の香りを、残り香まで慈しみながら茶を飲み干した。